思考と現場の間で

「いいサービスづくり」のために、組織づくりやソフトウェア設計など、考えていることを書きます

知識から知恵へ

プロダクトマネージャーは、役割上やろうと思えばどんな責務にも広げることができる。つまり、必要な知識が広い。だからこそ、インプットが重要だなと思い、毎日、色々なテーマで勉強する時間を取っている。

今現在実務で必要な知識というのは、そんなに広いものではなくて、今後必要かもしれない、とか今の知識にも間接的にはつながるかもしれないと思いながら、得る努力をする。知的好奇心が満たされるし、なんか安心感がある。ああ、昨日の自分よりは未来のリスクに対応できるようになったな、と思う部分もある。

ただ、実際にその知識が現場で活きるかどうかというとそうでもない。現場というのは、問題が大きければ大きいほど固有かつ複雑で制約が多い(要は詰んでる感じ)ことが多い。そうすると、知識の方程式がそのままでは効かない。

かつ、その問題についてどれだけ責任を持っているかによっても対峙する姿勢が違う。特に責任がなく、例えば依頼された作業者として対峙することと、結果全責任を負って対峙するのはまるで違う。後者の場合はなんとしても解決せねばというプレッシャーの中でやることになる。意思決定がそのまま結果に反映される。うまく行かなければお前のせいと言われる。

そこでとことん対峙し前に進むと、知識が知恵になる。知恵になると問題が溶解し、解決していく。知恵になったときに初めて役に立つ。そして自分のものになる。自分の言葉でも語れるようになる。

知識はインプットから始まる。そこにはある意味正解がある。一方で、知恵の源泉は矛盾じゃないだろうか。一見詰んでいるか状態から始まる。正解が無い。全く逆の状態から起こることだ。

僕は知恵を得ることに喜びを感じる。暗中模索から見える一筋の光。七転八倒し、失敗してかっこ悪い状態にもなりながら、それでも前に進む。だから、知識だけ得るのは面白くない。どんな仕事をするにもそういう暗中模索をしたい。

最近、アドバイザー的なお仕事もあって、客観的に組織や事象を見て色々な話ができるので楽しいこともある。ただ、何かそこには知恵まで届かない、つまり一筋の光を追ってないような感覚がある。理由は簡単で全ての責任を負ってないし、産みの苦しみが少ない。

でも、喜ばれることもある。このギャップには危険性が内包されている。本当に学んでいるのは僕ではなく彼らだ。外から正論なんてなんとでも言える。それが必要なことがあるのはわかる。だが、しかしだ。本当に重要な仕事は誰がやっているのか?責任を負っているのか?その方々にリスペクトが必要だし、対峙する姿勢が問われる。

知識は必要だ。知恵を出すときには必須だ。でも知識に溺れるのは危険だ。そして知識に溺れると、その圧倒的な知識によって周りは何も言わなくなる。フィードバックをもらえないとその自分の姿勢に疑問を持てなくなる。つまり、学ぶことができなくなる。知識を共有すると喜ばれる。承認欲求は満たされる。そうするとより知識を得たいと思う。知識は得られるが、学ばない状態は強化されていく。

多くの知識を得られたとしたら、それを知恵に昇華させより深い叡智にするために、現場のどうしようもない課題に対峙し、それを解決する責任を負ったほうがいいのではないか。そうして初めてその知識が知恵になり、誰かの役に立つ。そして本当の意味で自分の血となり肉となる。

だからこの一年僕はフリーランスとして色々やってきたが、責任を負う範囲を広げている。近いうちにそれだけにしようと思っている。そこにしか得たい学びが無いからだ。知識ではなく知恵を得ることで学びたい。

 

知識が直接多くの人に役に立つのは、教育や育成のみではないか。知識だけで問題を解決できることはほぼ無い。教育はそれはそれで現場以上の真剣勝負だ。前職では本当に大変だった。そういう道もある。