成人発達理論のマスターコースを受講したふりかえりを兼ねて、講師でもあった鈴木則夫さんの「人が成長するとは、どういうことか」を引用しながら振り返ってみたいと思う。
会社にいると、「会社の成長のための個人の成長が要求される」、という現場を常に見ている。そこに乗ることが楽しいという人もいれば、ちょっとしんどいなと思う人もいるんじゃないかと思う。会社や人生のフェーズにもよるだろう。それ自体にいい悪いはない。
問題は、「なんのための成長なのか」ということだ。会社組織においては、「資本主義的な発展のため」が主な動機ではないだろうか。個人の成長もそこに紐づく。もちろん、それが個人としてやりたいことであればいい。でも、そうでもないことも多いのではないか。なぜそういうことが起こるか。おそらく成長の定義が、前述の理由のような狭義として取り扱われているからではないか。
ここで本の言葉を引用してみたいと思う。
発達心理学においては、人間の発達とは、世界の複雑性をよりありのままに受容・尊重することができるようになるプロセスである (P.60)
ウィルバーによれば、人間の発達とは、こうした死の脅威に対する不安をその動機として、それに抗うための能力を発展させていくプロセスと捉えることができる (P.134)
この言葉を見るだけで成長(ここでは発達という言葉を使っている)の捉え方が変わる。非常に深く広いものだと感じる。それはつまり、人間にはそれだけの可能性があるということとも捉えられる。
引用の前者においては、世界の複雑性を捉えられることにより、会社が強いている成長について疑問に思うことがあるかもしれない。結果、その人の選択肢は今いる会社にとどまらず、広くなり、色々な可能性が広がっていくかもしれない。それ自体が成長だと捉えることもできる。
引用の後者においては、普段私は、自己防衛をしている人をみると、困ったりかっこ悪いなと思うことがある。それは、ある意味、何かを失う恐怖≒死の恐怖に囚われているその人に対する感情であり、その人の発達の余地ではないかと考える。自分自身も自己防衛に走りそれに気づいたときは恥ずかしさを覚える。それはおそらく感覚的に恐怖に囚われているということは人間としての成長がまだ足りないと思っているのではないかと思う。
これだけ考えても、成長とは深く広いものだと感じる。
私は、会社の成長に沿った個人の成長をすることに対して、ダメだとは思わない。人の選択ではあるし、マネージャーは部下の人生全体を扱った上で、会社での成長と紐付けて人生を豊かにしてもらうというのが役割の一つだろう。
一方で、その会社の思惑や構造、人間としての人生や発達という俯瞰した視点で事実を捉えている必要があると思う。そうしないと、無意識的に会社の思惑に従うことになるからだ。つまり、コントロールされてしまう。
その構造を認識し、意図を持ち乗っかる。意図を持ち降りる。そういうことができるようになることが、成長の重要なファクターではないだろうか。