思考と現場の間で

「いいサービスづくり」のために、組織づくりやソフトウェア設計など、考えていることを書きます

言葉にする世界の余白と隙間

最近顕著に「言語化」だ大切だと感じる。言語化しなければ伝わらない。言語化しないと自分も周りも変化させられない。つまり、価値を生むことができない。「人は見た目が9割」という本があるが、「人は言語化が9割」だと思う。言葉が生まれたことが人間が発達した要因だと言われているし、真理のひとつなんだろう。

そんな自分は言語化が苦手である。頭の回転が遅く、他の人達が言っていることを瞬時に理解できないことが多い。その後また言語化をするのに時間がかかる。そうなると、言いたいことを言ってないとか、無能ではないか(これは間違いではないのだが)とか言われることもある。社内外で言語化への圧力は強い。

スキルが足りないので学ばなければならないと思い、ブログを書いたり色々してきた。それによって、伝わることも少しずつ増えており、効果を実感している。でもなんとなく違和感は拭えていない。論理や言語化は単純化であり、言語化すればするほど「そこにあるなにか」から遠のいていく感覚がある。

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会社で機会をいただいて、生まれて始めていけばなを体験した。感じるがままに、花の魅力をそのまま活かす、それを5人のチームでいけるというワークショップだった。

なにもないテーブルから、花瓶の置き場所を決め、花の種類ごとにいけていく。与えらた世界は自由だ。選択肢は無限にある。自分の感覚に正直になり、いけていく。正しい正しくない、そんなの関係ない。ありのまま。

でもやってみると、もっとこうすると美しいのではないか、というアイデアが出てくる。一人でやらないので、どうしても会話をする必要があるのだが、会話に論理性がなくなる。正直なぜかと言われると説明できない。

「これ、もう少し右がよくない?」「良いね、確かに」「バラをこっちに移したほうがバランスが変わるよね」「そうだね」

みたいな会話の繰り返しがとても心地よかった。それが正しいかなんてものはわからない。でも、いけばなというアウトプットを通して、感覚で会話するということの楽しさと心地よさ、目の前にあるものをありのまま受け容れようとしているという身体感覚を花と仲間と共有している空間が創られた感じがした。

説明しきれない世界。説明不要な世界。そこにも叡智や情報がある。隙間や余白。感覚や日常。

言語化することが悪いことだとは思わない。私も努力を続けていく。ただ、言語化した先に成功はあるかもしれないが、私自身の人生そのものがあるようには見えていない。言葉にする世界の余白と隙間にあるように見えている。それが何かを探求するという旅に出たいと思う。

 

ワークショップをやってくれたのはこちらの方。立ち振舞や姿勢、言葉から、いけばなに対する考え方、生き方が伝わってくる素晴らしい方でした。

www.mayukaikeru.com