思考と現場の間で

「いいサービスづくり」のために、組織づくりやソフトウェア設計など、考えていることを書きます

言語化力

生まれてこの方ずっと言語化に課題があって、それは学生時代勉強してこなかったとか、もともとそんな脳みその質が高くないとか、そんなことを考えながら、そうは言ってもどうしようかなと思っていた。
 
できないままだとつまらない人生になりそうだからとある方に相談してみたところ、「言語化がうまくなるには言語化するしかない」とアドバイスいただき、確かに、と納得してしまった。振り返ってみると、やり始めても常に3日坊主的にもとに戻って自分の能力に悩む、ということを繰り返していることを思い出す。
 
その方のアドバイスどおりに、ノートを引っ張り出して思いついたときに書くというのを始めてみた。最近は自分自身の変化のために、感情などをノートに書くことはよくあるのだが、そういえば自分が考えている内容について書くということを完全におろそかにしていた。これはうまくなるはずがない。
 
ということで、思いついたことをノートに書き、このようにブログに書いてみている。前回のエントリーはまさにその思いつきから実験してみたものだった。10年前シュンポシオン横浜に参加するきっかけになったブログは毎日書いていた。それが自分が前に進むきっかけになったし、シュンポシオンの方々と未だにお付き合いがある、というきっかけになったのだから、言語化は大事だ(ってもう知ってるじゃないか…)。
 
 
ただ、ここ数日続けてみて、少し違う感覚も生まれている。最近コーチングをしたりされたりしているので、自分の状態や感情が見えるようになってきているので気づいたのだが、言語化をすること自体にものすごく抵抗感があるのだ。書くのもそうだし、しゃべるのもそう。できないという感覚と同時に、できてもそれを表に出しにくい。
 
まさに恥の意識で、学ぶ姿勢としては最悪だ。とはいえそれで否定してしまうとそこで終わる。昔は上手ではないにしろ言語化していた部分もあったし、今と当時の差分もある。おそらく自分の中に何か理由がある。
 
この10年の変化というのは、経験を積み重ねてしまったことだ。積み重ねてしまった。もちろん良いこともあるし、上手くいったこともある。だが、失敗もたくさんした。思い出したくない失敗もある。もちろんその失敗は自分の糧になっていて、学びがたくさんあったと思っている。でもその失敗のおかげもあって、どうも臆病になっているようだ。
 
とても上手く言語化している方々がいて、いつもすごい能力だなと羨ましい感覚で見ている。自分には真似できないと思っていた。とはいえ、その方々でも失敗はたくさんしているはずだ。失敗しないと成長はない。特に大きい仕事をやればやるほど。いかにそれを糧にして前に進むのか。
 
野村克也監督は、失敗と書いて学びと読む、と言っていたそうだが、まさにその失敗も含めて自分のやってきたことは糧になっているし、価値があるのだ。どんな結果であっても、ある意味自分のやってきたことを肯定できるのか、それが学びの姿勢だし言語化の姿勢ではないかと思い始めた。
 
自分のやってきたことを肯定する。それができるということが言語化の第一歩なのではないか。もちろん、だからといって自分がすべて正しいわけではないし、上手くいかないこともたくさんあるわけなんだが、それをしっかり受け入れた上で言語化していけば、姿勢も含めて伝わるのではないかと感じる。
 
長々と書いてみたが、スキル自体は全然足りない。それを何とかするためにも、この調子で少しの間続けてみることにする。