思考と現場の間で

「いいサービスづくり」のために、組織づくりやソフトウェア設計など、考えていることを書きます

成長という言葉が好きではない理由

以前もブログに書いたが、成長という言葉があまり好きではない。かと言って変化や変容という言葉も無機質な感じがして違和感があるし、言葉にしてみると成長とあまり変わらない。学びは悪くないが質感が少し違う感じがする。

なぜ成長という言葉が好きでないかというと、「強いられている」感じがするからだ。
なんとなく、常に伸び続けないといけないようなイメージがある。

今の時代(昔も?)、我々は成長を強いられている。会議、ワークショップ、評価制度、全社集会などの多くが「あなたの認識と行動を変えてください」というメッセージがimplicitに含まれている。時代も環境もどんどん変化していて、変化しないと生きていけないかのような見えない圧力も合わさって、翻弄される。

ただ、実はそれは個人の選択でもある。素直に受け入れたければ受け入れて成長すればよいし、嫌なら成長しなければよい。変化を強いられる環境が嫌なら、そうではない環境への「変化」を選択するという人生もある。我々は自由なはずだ。

一方で、今まで見えなかった景色が見え認識が変わる、今までできなかったことができるようになる、というのは純粋に喜びでもある。これ自体が嬉しくない人はほとんどいないのではないだろうか。

大事なのは、強いられることに流されず、自分で選択することじゃないだろうか。流されるという選択をすることでも良い。とにかく、意思を持って自分で決めることだ。

だとすると、成長や変容はどのように起こるのか、なぜ我々は強いられるのか、自分はどうしたいのか、ということを知っていることが役にたつのではないだろうか。知ることによって、選択しやすくなるからだ。僕はだから学びを学んでるのかもしれない。
加えて書いていて気づいたのだが、それ自体が成長とも定義できてしまう。

結果的に再帰的な結論になってしまった。以前のブログより成長という言葉の認識がアップデートした感じはするな。それ自体が成長なんだろう。