他人のことを知るのは難しい。これは誰もが当たり前に思うことだ。相手のすべての面を見ていないし、内面は見えない。だからこそ言葉にし、会話し、対話し、お互いを知ることによって前に進めようとする。
自分のことを知るのは難しい。こう語ってみると、少し違和感を覚える人がいるではないだろうか。自分をコントロールしてるのは自分だし、自分の内面や感情は「今ここにある」のだから、自分のことは自分でわかっている、と思うのが自然だろう。
ただ、実際はそんなことは無い。人間には「バイアス」という尺度を持っていろいろな価値判断をしてしまう。バイアスというのは一概に悪いものとは言い切れず、尺度になるので、何かを判断するときに必ず必要なものだ。
一方で、バイアスが常に固定されていると、別の尺度で見ることができず、視点が固定化する。物事というのは現実的には多面性がある。一方向からだけ見ているとわからないことが多くあるわけだ。それは、自分自身のことも同じである。
更に厄介なのは、感情だ。感情というのは、事実から無意識的に目をそむけようとする。よく言うサボタージュである。見たくないものは見ないように誘導する。見たくないものを見るためには、直視するようにセルフマネジメントをするか、環境的に見ざるを得ない状況を作るかしかない。
そして、多くの人は自分にサボタージュがあることに気づいていない。それが当たり前だと思っている。盲点なのは、そのサボタージュに気づきやすいのは他人である。多くの感情は隠しきれていない。その感情のために避けていることも隠しきれていない。バレバレである。裸の王様だ。
だから自己認識をする努力をし続けるのが大事だ。常に自分を疑う。そして変える。他人にフィードバックをもらう。自分の感情を書き出す。人間とは何かをいろいろな方法で学び、自分と照らし合わせる。
組織においても、内的自己認識(自分)と外的自己認識(他人から)の乖離が問題になることがある。そのために、自己認識の支援ができるといいときがある。ただ、変化を待てずにどこかで人事的な決断をしないと行けない場合も多くある。そうであったとしても、本人の人生にとってより良い気づきに持っていきたいという想いが強くある。でも、難しい。