思考と現場の間で

「いいサービスづくり」のために、組織づくりやソフトウェア設計など、考えていることを書きます

40代おじさんにおける成長について

ある方と話していて、おじさんにとっての成長って難しいよねという話になった。
 
成長は良いことだ、成長し続けるべきだ、という価値観や方向性は、その言葉だけ聞くと「そうだよなぁ、うんうん」となるんだけど、自分自身に当てはめてみると、それってなんかしんどいと言うか、100歳まで生きたとしてそれが続けられるだろうか、とかいろんな違和感が発生する。
 
その違和感を覗いてみると、年を取ったのかなぁ、自分も老害になってるのかなぁ、とかなかなか暗い気持ちになることも、たまに、ある。
 
一方で、幸いにも子供に恵まれ、毎日見ていると、明らかに「成長」している。本当に昨日できてなかったことが今日できるようになるのだ。寝返りをうつ、おもちゃで遊ぶようになる、座れるようになる。もうその成長速度たるや、見ていると驚愕するし、幸せな気持ちになる。これは「成長」で違和感が無い。
 
自分も思い返してみると、吹奏楽部で楽器を始めたとき、就職して仕事を始めたとき、初めてのことばかりで戸惑い今思うとワケガワカラナイ行動をしながらも、明らかに「成長」していた実感があった。ホワイトキャンバスで絵を書くように。そこには喜びがあった。
 
でも、今の自分の「成長」の感覚はその時とは変わってしまった。初めてのチャレンジもしているし、仕事も難しくなってできたときの喜びはあるはずなのに、何か違う。そこにあるのは、上の方に見える「無条件の光」のようなものではなく、もっと身近にある日常であり、苦しみも喜びも混在している。
 
その違和感を拭うために、個人的には成長という言葉をあまり使わないようにしている。学びとか変化とか、アンラーニングという言葉だ。「成長!」のようにキラキラしてはいないのだが、大変しっくりくる。日々学び、変化する。今までの成功体験を捨て、アンラーニングする。日常で意識する必要がある。
 
子供の学びは喜びである
大人の学びは痛みが伴う
 
これは、今の会社の社長が言っている言葉なんだが、大変残念だがこれが当てはまってしまって泣ける。大人の学びはキラキラしてない。日々悩み、日々小さな一歩を踏み出し、過去の成功体験を捨て、失敗しながら進む。それを超えられた向こう側に、喜びがある。ごくごく稀に。本当に稀に。
 
20代のころは、身近の40代以上のの人を見て、あんなおじさんになりたくないな、とか思ったこともあったけど、なってしまった。しかも、なぜそうなるのかというのがよくわかった。でも、幸いにもそれが何故か、ということは学ぶことができた。これはありがたい機会だ。
 
この話をしていて思い出したのが、逃げ恥の百合ちゃんの言葉だ。印象に残りすぎてこのシーンが一番好き。ポジティブモンスターに色々年齢を絡めて攻撃された後にこう言い返す。
自分の若さに価値を見出しているのね
私がむなしさを感じることがあるとすれば
あなたと同じように感じている女性が
この国にはたくさんいるということ
 
今、あなたが価値がないと切り捨てたのは
この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ
 
自分が馬鹿にしていたものに自分がなる
それってつらいんじゃないかな?
 
私達の周りにはね、たくさんの呪いがあるの
あなたが感じているものも、その一つ
 
自分に呪いをかけないで
そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい

20歳の成長の定義と、40歳またはそれ以上の成長の定義は違う。自分自身、ああなりたくないな、ではなくいつか行く道の先輩たちの視座を追いながら、泥臭く学び続けたいと思う。